『涙がラッピングを溶かすとき』

人生色々あったなぁ。

ひょんなことから、自分の恋愛遍歴について、まとめて振り返る機会があった。
あぁそういえばそんなこともあったっけ、と思ったり。すっかり忘れていた過去の出来事たち。
あのときの私はこんなこと思ってたのかー若いなぁ、みたいな気持ちになった。笑える。
直近の話は今の自分と地続きに感じているけれど、過去の私の話は、もう今の自分とはかけ離れていて。
そんな身勝手なことしてたんだっけ?と笑いがこみ上げてくる。
過去の自分の振る舞いが自分本位で身勝手で、あまりにも面白い。そんな頃もあったんだなぁ。

随分と大人になってしまったんだなぁ。
ふと思った。

大人?大人ってなんだろう。
自分のことを大人だと感じたことなんてないけれど、自然と出てきた言葉。
「思っていることを伝えなくなった。」
「行動しないための言い訳が上手くなった。」
そういうことじゃないかなぁ、と言われて。あぁそうかもしれない、と思った。

あの頃と今の自分は、一体何が違うんだろう。
身勝手だったなと思う頃の自分は、自分が見ている世界が本当で、正解で、間違いないと思っていた。
でも今は、そんなことは思えない。
たぶんどこかで、自分が見ている世界と、他人が見ている世界は、見え方が全く違うのだということに気づいたんだと思う。
もちろん似たような世界の見え方をしている人もいるのだろうけれど。
全員が同じように世界を見ているわけではない、ということを知った。

良く言えば、受け留められるものが増えた。
今まで自分が理解できないと感じた物事に対しても、あぁそういう見え方もあるのかもしれない、と思えるようになったり。
悪く言えば、自分の見ている世界に疑いを持つようになったのかもしれないし、自分の見ている世界を信じ切ることができなくなった、とも言えるかもしれない。
なんだろうなぁ。あんまりよくわからない。

悪口を言ってはいけないと、どこかで思うようになっていた。気がする。
愚痴を言う自分が嫌い。だから愚痴は言いたくない。
悪口と愚痴の違いがよくわからない。だから悪口も言えない。そんな感じ。

でも、腹立たしいと思ったり、嫉妬する気持ちが湧いたり、そういう感情もあるはずで。
だけど、そんな感情を持つなんてことはしちゃいけない、なんて頭で考えて。
実際は、持っている感情に見て見ぬふりをして、蓋をして、心の奥底に隠していたのかもしれない。
本当は感じて思っていたことだったのに。自分でも気づけないほど、心の奥底に隠してしまった。

涙が出る。泣いても泣いても止まらない涙が出る。
一体なんでだろう。本当にわからなかった。
「頭で考えていることと、体が感じていることに大きなギャップがあるから、それを埋めようとして涙が出るんですよ。」
そんな話を聞いて、そうかぁなるほどなぁと納得した。

当時の自分は、悲しくて涙が出るのだと心底思っていたし、それで納得していた。
でも、納得したはずなのに、思い返すといつまで経っても涙が止まらない。
人に助けを借りて、おそるおそる蓋を開けて中を見てみたら。
そこには、悲しいという気持ちにすり替えた怒りや妬みという感情が潜んでいた。

あぁ、私の涙は、私が抱えている怒りや妬みが自分に気づいてもらえなくて、
どうにか気づいてほしい、無視しないでほしいと私に知らせるために湧き出てきたんだなぁ。
そんな気持ちになった。

すごく美しくキレイなラッピングをして、人前に見せていた感情の中には、人には見せられないと感じる怒りや妬みが潜んでいて。だから誰にも開けてほしくなかったのかもしれない。自分でも開けたくなかったのかもしれない。
だって、そういう気持ちと向き合うのは、すごくしんどいし大変だから。
悲しくなるほど身勝手で、でもそこにある自分の感情は、存在していることに変わりはなくて。
受け入れてもらえない感情は、涙でそのキレイなラッピングを溶かしてしまいたいのかもしれない。
自分の存在を知ってもらうために。

人の前に出して並べておく感情は、美しい包装紙とリボンでくるんであっても良い。
でも、その中に入れた感情は紛れもなく私自身のものなのに、自分さえも騙してその感情の本質を見てみぬふりをしていると、「ここにいるのになかったことにしないでよ」「否定しないでよ」と感情が訴えかけてくる。

自分の存在が無視されたら悲しい。気づいてほしい。
そんな当たり前の事実に、改めて気づいたのだった。

へー、なるほどなぁ。
自分が感じて、実際に涙を流しているのに、それが何故なのか全然わかってなかった。
体ってすごいなぁ。頭で考えていることよりも、ずっとずっと正直だ。
その正直さに、自分がどうやって向き合って、受け留めていくのか。
これはきっと、この先も人生を通じて試行錯誤していくことなのだろう。

自分の感情の受け留め方と見せ方と。
それはどちらも大事で、どちらも欠けては困るもので。
自分が持っているものは、自分にしかわからない。見せるかどうかを決めるのも自分。
もちろん、人から見てわかりやすいことも、中にはあるかもしれないけれど。
自分の流す涙は、考えていることと感じていることにギャップがあるんだよ、と私に知らせてくれる手掛かりなのかもしれない。

しんどい気持ちをずっと一人で抱えさせてごめんね。
大変だったと思うけど、捨てずにいてくれてありがとう。
その感情の存在に私もちゃんと気づいたから、これからは一緒に抱えていくよ。


御礼

このエッセイは、2021年秋頃に受講した高柳しいさん(@oyoge_oyoge)のエッセイ講座において、対話と問いかけ、暖かな見守りの力をお借りして完成させることができました。改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。

自分の感情に向き合い、エッセイとして書き残してくれた当時の私へ。ありがとう。
今となっては懐かしいどころか、そんな涙を流していたこともあったなぁくらいの気持ちです。
それでも、こうして形に残したお陰で、今の私は当時を思い出すことができます。

そんな身勝手なことしてたんだっけ?と笑いがこみ上げてくる。

こんなこと書いてあるけど、2021-2022年にかけて私はまた身勝手なことをしたりしていて、
「こうして繰り返されていくものなのだなぁ」なんて、別の笑いが込み上げています。

随分と大人になってしまったんだなぁ、だって。
あ〜おっかしい!大丈夫だよ、大人びて見せようったって、そうはいかないから。
大丈夫だよ、私は私だから。掛け離れているように感じる?いやいや、やっぱり私なのよ。
そんなに肩肘張らなくてもね、大丈夫。成るように成るから。
今の私から当時の私へ声をかけるなら、こんな感じでしょうか。

形にするって、大事だな。改めて実感した2022年6月でした。


私の人生に関わってくださった全ての人へ感謝を。
まだ今の私の心には、小さな蟠りが残っていることもあるけれど。
何か一つでも欠けていたら、今の自分はいないから。

きっと未来の私が今を振り返ったら、「あぁ、そんなこともあったなぁ」なんて思うのだろう。
時を経て、見えるものや感じることが変わっていくことが、今から楽しみです。

私の人生に関わってくださった全ての人へ、今の私ができる限りの感謝を。



このエッセイを書き終えた後。
しいさんからBUMP OF CHICKENの「涙のふるさと」という曲を紹介していただきました。
ぜひ聞いてみてね、とのこと。当時、私はこの曲を知りませんでした。

受講後の余韻に浸りながら、夜の散歩に出掛けました。
散歩のお供に聴いてみようと早速スマートフォンで曲を探して再生。
初めて聞いた曲の歌詞に涙が止まらなくなったのは、人生で初めてのことでした。

なんて歌詞だろうか。自分が書いたエッセイにお返事をもらったような気持ちになりました。
当時の私だからこそ響いたものがあった。この出会いは、私の中にずっと残り続けるだろうなと思います。
しいさん、ご紹介ありがとうございました。この曲にあのとき出会えて本当に良かった。


このエッセイをようやくお披露目できそうなところまで来て、久々に聴き直しました。
今回は歌詞を読みながら。最近の私は、当時とは全く違うことで涙を流しているけれど。

そうだそうだ、そうだった。会いに来てくれて、ありがとう。
遅くなってごめんね、消えちゃう前に、ちゃんと会いに行くよ。
もう逃げないよ。だから、笑わないで待っていてね。

とっても素敵な曲なので、良かったら聞いてみてください。

♪BUMP OF CHICKEN「涙のふるさと」(Youtube)


それではまた、気が向いたときにお会いしましょう。
読んでくださったあなたに、心からの感謝を。

出海

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